at backyard

Color my life with the chaos of trouble.

コトリンゴの悲しくてやりきれない、がとても染みるそんな夜

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風呂から出たらGoogle Homeコトリンゴの悲しくてやりきれないを流していた。

コトリンゴの囁くようないつもの歌い方、リバーブがかかったピアノの音色、同じくリバーブとディレイのかかった小気味良いギターのカッティングが、家族が寛ぐリビングの中を満たしていく。

赤の他人の絶望を他人事のように眺めている気分、この曲を聞くとそんな気分になる。

それは冬の午後の日差しのように優しくも切ないものだ。そして少しだけ懐かしい。

自分はいったいなぜそんなふうに感じるのかを少しばかり自問自答してみる。悲しくてやりきれない、と歌われているのに優しくも切ないとはなんだ?ちょっと残酷なんじゃないか、と。だが、そういうわけではない気がする。

我々は常になんらかの悲しみとともに生きている気がする。私が少々ニヒリスティックなだけかもしれないが。悲しくてやりきれない事はたくさんある気がする。だが不思議と思い出せない。悲しくてやりきれない気持ちを常にどこかでクシャクシャと潰して生きているからではないだろうか?

私が二十代の頃、音楽を作る大きな原動力は負の感情だった。生きるのは楽しいことではない。この世界を多少マシなものにするために曲を書いていた。悲しいことがあった時、それを癒す過程が必要だった。その1つのプロセスに音楽があった。

悲しくてやりきれない気持ちが音楽に変わり、それは何処かへと昇華された。

悲しくてやりきれないをきくと、そんな当時の心境が蘇る。優しくも切なく、そして懐かしく感じていたのはそんな当時の自分をこの歌の先に見ているのかもしれない。

今日も穏やかな冬晴れだった。

自宅で仕事をしていると1日の移り変わりをしっかりと感じられる。仕事は忙しく1日はあっという間だが、1日のリズムを失わずに1日を過ごすことができるのは、とても幸せなことだ。

決まった時間帯に近所の子供達が公園で遊んでいる声が聞こえる。洗濯物越しに少しばかりそんな光景をぼんやりと眺める。冬の午後の優しくも切ない日差しが差し込む時間帯。

さて、少々感傷的な文章を書いてしまった。

妻は風呂に入り、娘はいつしか眠りに落ちた。 私は布団の中で駄文を書き連ねながら眠りに落ちようとしている。